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世界考04 カメレオンの意識

 
 我が家で飼っているカメレオン(エボシのメス)は、寝るとだいたい油断の塊のようなパステルグリーンになるのですが

_IGP8970.JPG
 もっと熟睡すると茶色い模様も消えてほぼ完全にパステルグリーンになります。白いのは脱皮した皮

 さっき見たらなんか突然ガガガっとまだら模様になって

_DSC5898_.JPG

またすぐに戻りました。

_DSC5900_.JPG

 カメレオンも夢とか見たりするんでしょうか?

 ここからは、時々やる僕のうんざりするほど長い思考実験です。興味のない方は飛ばしてください。

 僕は魚や爬虫類をたくさん飼っていますが、彼らを見ていると、確かに感情があり、記憶があり、外界を認識して学習もするのですが、意識があるか?と聞かれると、意識はないのではないか、あるとしても人間とは違った意識なのではないか、という気がします。

『意識とは何か?』を、自分なりに、できるだけ簡潔な言葉で表現すると

『相手の 出方を 覗う 相手の 出方を 覗うシステム』という事になります。これは学問的な話でなく、単に僕の考えです。意味が分からない、という人は、ゆっくり何度か読み返してみてください。

 基本的に、脳は生存の確率を上げるために進化ものだと思います。子孫を残す、というのはちょっと脇に置いて、個体が生存するには

餌 > 飛びつく
敵 > 逃げる

 という二択をできるだけ素早く行う必要があります。自分から見て餌だとしたら、餌から見たら自分は敵ですから自分の『飛びつく』と餌の『逃げる』のどちらが素早いかで生き残るのがどちらなのかが決まるわけです。

 僕が飼っているトカゲやカエルなどは、この判断をひたすらシンプルに高速化する事で環境に適応しようとしているように見えます。カエルなどは『動く黒っぽいものに噛みつく』という単純なルールしかないように見えます。そのかわり素早いです(もちろん実際には色々判断して行動していますが)。


スローですが……。

 こういう条件反射の速度には限界があります。おそらく、脳は進化のどこかで『目の前の状況に反応する』から『目の前の状況から一瞬先の未来を予測して、それに反応する』という新しいシステムを獲得したのでしょう。

 例えば、虫を見てそれに飛びつくのではなく、虫の飛ぶ軌跡を見て飛ぶ先に飛びつく、というような。つまり『相手の 出方を 覗うシステム』です。

 記憶によって過去との差分を抽出し、思考によって未来を予測する――。脳はそのように進化してきたように思います。

 ただ、これをするには意識は必要ありません。脳はただの演算装置で構わないはずです。ではなぜ人間は意識があるのでしょう?
『意識は錯覚に過ぎない』という考え方もあると思いますが、ではその錯覚を産む必要性が何故あるのか、と考えてください。

 自分の脳が、意識を持たないただの演算装置だと仮定してください。僕らは例えば石が落ちてきて頭に当たれば『痛い!』と感じますが、別に『痛い!』と感じる意識(というかこの場合クオリアですね)がなくても、落ちてきた石に対して適切に対応できればいいわけです。そういう存在を『哲学的ゾンビ』と呼びます。我々は何故ゾンビではなく意識を持っているのでしょう?

 ここで最初に書いた意識の定義を思い出してください。我々は『相手の出方を覗う』のではなく『相手の出方を覗う相手の出方を覗って』いるのです。

 我々が進化の過程で『相手の出方を覗う』能力を持った時、当然同じ能力を持った他者と向き合う事になります。『相手の出方を覗おう』と思ったら、その相手もこちらの出方を覗っているわけです。

 そこで人間は、他の生物より一段進んだ『相手の 出方を 覗う 相手の 出方を 覗うシステム』を持つ必要が生まれたのでしょう。言語を持った事も、その必要性を強める要因になったのではないかと思います。

 『相手の出方を覗う相手の出方を覗う』行為は、素早く行う必要があります。1秒先を覗うのに2秒かかったら意味がないからです。ではあらかじめ3秒後の相手の出方を覗えばいいかというと、多分未来になるほど急激に起こり得る可能性の分岐が増え、予想が難しくなって予測自体が成り立たなくなってしまうのでしょう。

 『人には意識がある』という仮想は、他者の行動を素早く予測する際に有利に働くのではないかと思います。意志を持ち、ある目的を持っていると仮定しないと、相手の次の行動を予測するのは非常に難しいはずです。

 我々は生活の中で物理法則を学習し、頭の中の物理法則レンダリングエンジンのようなものを使って、例えば石が飛んできた時、その軌跡を予測して、石が自分に当たるかどうかを判断します。他者の行動も、同じような方法で予測しているはずです。
 つまり、人間も物理法則のような一定の行動パターンがあり、行動には動機や目的がある、と仮定する事で、我々は、例えば『他者に石をぶつければ怒る』といった行動を予測できるようになったのではないかと思います。その仮定、他者の持っている動機や目的を、演算処理できるようにできるだけコンパクトにまとめたものが意識です。

 つまり、『相手の出方を覗う』ための演算処理をできるだけ高速に行うために、相手の『相手の出方を覗う』プロセスを記号化し、コンパクトにまとめたものが『意識』ではないか、という事です。

 そう考えると、意識というのはまず自分に意識が生まれ、次に他者にも意識がある事に気づいた、のではなく、自分と他者が対峙し、お互いに相手の出方を覗い、先を読み合って『相手の出方を覗う相手の出方を覗う』状態に達した時、『自分に意識がある』と『他者も意識を持っている』という仮想が同時に発生した、と考えられます。
 意識とは、自分の意識がまずあり、その自分の意識が他者を認識しているのではなく、他者なしに自己は成立しないし自己なしに他者も成立しない、ひとセットのものなのではないか、という気がします。

 今自分が『これが自分の意識だ』と思っているものは、他者の意識を認識するための装置で、本当の『自分の意識』は、他者と対峙した時、その他者を鏡として初めて現れるもののような気がします。生まれてからずっと一人で生きていたら、何らかの方法で生活に必要な知識を習得したとしても、おそらく意識は発生しないのではないかと思います。
 では、普通に意識を持っている人が他者と対峙していない時(一人で部屋にいるとか)、その人に意識はないのかといえばもちろんそんな事はないと思います。僕も今、一人で部屋にいてこの文章を書いていますが、たぶん意識はあります(笑)。しかし、自分の意識を意識する事は非常に困難です。多くの場合、意識が発生させた記憶を観察し、一瞬前の自分の意識の有り様を知るのが精一杯でしょう。眼球が眼球自身を見る事ができないのと同じです。

 しかし人は、自分の意識の中に、自己と他者の中間のような『半他者』とでもいうべき仮想を立ち上げて、それによって自分の意識を間接的に観察できるような気がします。うまく説明できないのですが、僕は自分の意識を探る時、そのような『半他者』を意識の中に立ち上げているように思います。自己ではないけど、記憶は自己と繋がっているなにか、といったようなものです。絵を描いたり物語をつくったりする作業の中で、そんな風に考えるようになりました。単純に『自分を観察する自分』を設定しても、『その自分を観察する自分を観察……』という無限退行を起こすだけですが、そうではない『自分の探り方』はあるような気がします。

 少し話が戻りますが、人はどうやって『意識のあるもの』と『意識のないもの』を区別しているのでしょう。意識を構成する最も重要なものは、『強い偶有性』だというのが、僕の個人的な考えです。偶有性というのは『AでもBでもありえたのにたまたまBであるようなもの』という概念ですが、ここでは、なんというか、一見ランダムなんだけど、よく観察するとその中に法則性が見え隠れしているもの、と思ってください。強い偶有性というのは(造語です)、この、ランダムなものの中に見えてくる法則性が、観察によって変化し、その変化が観察者に影響を与え、その影響がさらに法則性を変化させる、いわゆる自己書き換えのループ構造をもつようなものを指します。

 壁打ちテニス(スカッシュ)は、ボールの軌跡にランダムな要素はなく、法則性が隠されないので偶有性はありません。壁がうねっていたら、ボールの軌跡にランダムな要素が入っているように見えるので弱い偶有性があると言えるかもしれません。テレビゲームのテニスは、対戦相手のコンピュータの行動パターンがこちらの行動によって変化するので、もう少しはっきりと偶有性を持っていると言えそうです。しかし、パターンを見切ってしまえば偶有性は失われます。これが本物のテニスになると、対戦相手の行動はこちらの行動によって変化し、しかもその行動が相手の次の変化を産む、というループ構造を持っているので強い偶有性を持つ事になります(僕の勝手な定義によればですが)。だから、意識にはボールを打ち返してくれる他者が必要だと思うのです。

 再三言っている『相手の 出方を 覗う 相手の 出方を 覗う』というのは、つまりこの強い偶有性の事です。まだるっこしい説明ですみません。書きながら考えているので。

 そういえば、この『書きながら考える』という行為は、出力された文字列を仮想の他者として置く事で、自分の思考を自己書き換えしながら前進させる意識活動ですね。

 文字を書いたり喋ったりする時、実は書いた文章を見たり、しゃべった自分の言葉を聞くまで、自分が何を書こうと(喋ろうと)しているのかを知る事はできません。書く行為は時間がかかるので分かりづらいですが、喋る自分をじっくり分析すれば、喋る内容を決めてから口を動かすのではなく、喋った内容を耳で聞いて初めて自分が喋った内容を知るのが分かると思います。自分の意識は自分には見えず、一度出力してそれを観察するという形でしか知る事はできないのです。

 まとめます。自分の行動を相手に見せ、相手を変化させ、その変化量を見て自分を変化させ、自分に起きた変化の差分によって自分の意識を知る、というのが『自分には意識がある』事を確認する最小のプロセスです。相手がどのような演算プロセスによって変化するのか事前に知らない事が必須ですが、自分の意識は自分には見えないという盲点によって、自分の喋りを自分で聞く、というような運動系から感覚系へのループによっても意識は発生します。でも本来意識は他者の存在があって初めて意味を持つもので、他者と向き合う経験を持たない人間に言語を教えても、恐らく記号として扱う事はできてもそこに意識は発生しないのではないかと思います。哲学的ゾンビです。

 意識のループを発生させうる自己と他者は、ある程度共通の情報処理プロセスを持っている必要があります。自分の行動の意図とそれに対する相手の解釈が余りにずれている場合、相手を意識がある存在だと思うのは難しいし、相手を鏡として自分の意識を知る事もできないだろう、というのがその理由です。
 例えば『怒って相手を殴った』という場合(正確には、自分には知る事のできない自分の意識が殴る自分を想像し、行動を準備し、それによって『自分は怒っているのだ』と気づくのだと思いますが)、殴った相手が全く無反応で表情も変えなかった場合、相手の意識が理解できなくなるのと同時に、自分の意識(怒り)も変質してしまうはずです。『相手の出方を覗う相手の出方を』覗えなかったからです。こちらの予想通りに反応するか分からない相手が予想の範囲内の行動をし、それが自分の次の行動に繋がった時、その強い偶有性によって意識は意識としての機能を持つのです。


 冒頭の話に戻って、僕がカメレオンに意識があると確信できないのは、カメレオンと僕が同じように世界を認識しているのか分からないからです。カメレオンの仕草を擬人化する事で、強引にカメレオンの意識を仮定する事はできます。しかし、それは相手の反応をあらかじめ予想の範囲内に収めててからそれを予想し、予想の範囲内だというようなものです。偶有性はなく、意識はない、という事になります。
 そして、もしかしたらカメレオンも『時々やってきてエサを置いていくこいつは、どうやら意識は持っていないようだ』と考えているのかもしれません。


 長文、最後までおつきあいくださってありがとうございました。僕はこの手の勉強をした事がなく、趣味で考えているだけなので、間違っていたらすみません。

 先日の便利家電紹介の記事のあとにこれなので『ここは一体何のブログなんだよ!』と思われる方も多いと思いますが、安倍吉俊というイラストレーター兼漫画家の日記的ブログです。リューシカ・リューシカという漫画を連載しています。無料のWebマガジンですのでぜひ。

 こんな感じの本を出しています。


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テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

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安倍吉俊

Author:安倍吉俊


イラストレーター。漫画集『回螺』、画集『垓層宮』発売中。
ガンガンONLINE『リューシカ・リューシカ』連載中。
代表作『lain』『NieA_7』『灰羽連盟』『TEXHNOLYZE』
Macユーザー。カメラと自転車好き。爬虫類と魚を飼育中。
何かありましたらabetc*mac.comまで(*を@に変えてください)。

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