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世界考03 永久循環辞書

 
 時々、小難しい事を考えます。考えているうちにこんがらがって形にならないまま忘れてしまうので、備忘録的にメモ書きします。長いし僕の思考の迷走ログでしかないので、興味のない方は飛ばしてください。

 マリーの部屋という思考実験があります。

 色のない部屋に住み、モノクロのテレビだけを使ってあらゆる知識を学び、一度も色というものを見た事がないまま、すべての知識を体験ではなく学習という形で身につけたマリーに、ある日本物の真っ赤なリンゴをぽん、と見せた時、マリーは新たに何かを学ぶだろうか?それともすべてを知識として知っているのだから、生まれて初めて本当に色のついたリンゴを見たとしても新しく学ぶ事は何もないのだろうか?

 という思考実験です。

 マリーは色のついた物を見た事はなかったけれど、色に関するあらゆる知識を持っているのだから、赤いリンゴを見てもなんら新しく学ぶ事はない、という考え方と、いや、色を見るという行為を実際に初めて体験したのだから何か学ぶ事はあるだろうという考え方があります。

 ごく大ざっぱに言って、前者は世界のすべてが物理現象として説明できるとする物理主義的な考え方、後者はクオリアのような、現在の物理法則ではまだ説明できない、意識の中で感じられる固有の質感のようなものが存在する、という考え方になります。

 この議論の行方についてはwikiを参照してください。

 僕が興味があるのは、マリーがどのようにして実体験を伴わない学習だけですべての事を学習できたのか、という事です。

 もっと分かりやすく言うと、全く知識のない人間が使用したとしても、すべての知識を検索し、理解できる辞書を作る事は可能か?という事です。

 マリーは最小限の言語と文法は理解できていますが、基本的には何も知りません。『アリ』も『石ころ』も『ウサギ』も『えんぴつ』も『おにぎり』も知りません。でも辞書を引く事はできます。

 マリーは『アリ』を調べるために辞書を引きます。

アリ………アリ(蟻・螘)は、昆虫綱・ハチ目・スズメバチ上科・アリ科(Formicidae)に属する昆虫を指す。体長は1mm-3cmほどの小型昆虫で、人家の近くにも多く、身近な昆虫のひとつに数えられる。原則として、産卵行動を行う少数の女王アリと育児や食料の調達などを行う多数の働きアリが大きな群れを作る社会性昆虫。種類によっては食用に扱われる事もある………………

 さて、マリーは文字は読めますが、辞書に書かれているすべての単語が未知のものです。ひとつも分かりません。しかたなく、マリーは『アリ』を調べるためにアリの説明文の単語をひとつずつ辞書で調べます。

 『昆虫綱』『ハチ目』『スズメバチ上科』『アリ科』『属する』『昆虫』『指す』『体長』……………きりがありません。
 アリの説明文を構成する説明文を構成する説明文を構成する説明文を構成する説明文を構成する説明文を構成する説明文を構成する説明文を構成する説明文を構成する説明文を…………いくら調べてもそこに書かれている説明文の未知の単語を調べるためにさらに辞書を引く事になってしまいます。

 まあ、多くの人が『駄目じゃん』と思うと思います。ここでマリーの能力を紹介します。

●マリーは一度調べた言葉はすべて完璧に記憶します。

●マリーは疲れないし絶対に諦めません。

●マリーは食事も睡眠もとらず1日24時間辞書を引き続ける事ができます。

●マリーは不老不死です。

●ついでに、辞書の説明に使われているすべての言葉は辞書に載っています。そして、辞書にはあらゆる事が載っています。

 さて、マリーはアリとは何であるか、その答えに辿り着く事ができるでしょうか?

 答えを知る前にこっちの寿命が持たないかもしれませんね。ではマリーに超高速で辞書を引く能力も与えましょう。

●仮に辞書に載っている単語が100万語だとしましょう。マリーは1秒に100兆回、辞書を引く事ができます。

 では改めて、マリーはアリとは何であるか、その答えに辿り着く事ができるでしょうか?

 言語空間という仮想の空間を想像してみましょう。辞書に載っているすべての言葉がその空間上に浮かんでいて、関連のある言葉同士が線で繋がっています。

 辞書を引いてその言葉の意味を調べるという事は、検索ポインタが言語空間上に浮かぶ言葉から言葉へと線を伝って飛び移ってゆくようなものです。
 マリーが超高速で辞書を引くと、検索ポインタは、まるで波紋が広がるように、言葉から言葉へと意味を分解しながら発散してゆきます。最終的には、すべてのポインタはこれ以上意味を分解できないという言葉の袋小路か、『山:丘より高い土地の隆起』『丘:山より低い土地の隆起』のような無限ループに陥ってしまうはずです。

 何故なら、マリーは言葉の意味をひとつも知らないからです。

 辞書を引いて意味を知る、という事はつまり、意味の分からない単語を意味を把握している単語の集合体に変換する事です。だから意味を把握している言葉を持っていないマリーはどれだけ高速に辞書を引いたとしても『意味を知る』状態には至らない、という事になります。

 さて、マリーは本当に言葉の意味を知る事はできないのでしょうか?

 マリーは辞書を引くうちに、文法や言葉の持つ法則性を理解してゆく事でしょう。辞書内のすべての例文を暗記する頃には、もしかしたら理解したルールを用いて作文する事もできるようになるかもしれません。
 しかし、『リンゴ は 赤い』という作文をする事ができたとしても、マリーは実際にリンゴを見た事はないし、『赤い』というのがどのような質感なのか、その体験は一切持っていません。知っているのは言葉と文法、そしてその使用例だけです。

 『赤い』がどういう事か全く分からなくても、『赤い』という言葉が使われる例文を大量に記憶すれば、『赤い』という言葉を適当な場面で使う事はできそうな気がします。その時、マリーは『赤い』を理解したと言えるのでしょうか?

 マリーは『赤い』という言葉の意味を理解できない、つまり辞書のみで言葉を理解できない、と考えるなら、クオリアの存在を肯定する事になります。

 『赤い』という言葉を適切な場面で使えるなら、『赤い』を理解したと認めてよい、と考えるなら、脳の機能はコンピュータや人工知能と同等で、ただ複雑なだけ、という事になります。何故ならマリー上記のような学習は人工知能でも可能ではないかと考えられるからです。

 さてどちらでしょう。

 ひとつの考え方として、言語の意味の最小単位は自分の身体性に基づいているのではないか、という考え方はできると思います。
 『冷たい』『重い』『高い』『丸い』『甘い』などは、自分の感覚器官を通して入ってきた体験と言葉を結びつける事で、言葉によって意味を定義付けできなくても『ああ、あの感じの事か』と意味を了解する事はできます。

 僅かでも知っている、つまり辞書の永久循環に陥らずに意味を了解できる単語があれば、それを手掛かりに他の単語の意味を定義してゆく事は可能です。クロスワードパズルでひとつマスが埋まると雪だるま式に他のマスも埋まるのと同じです。
 この考え方だと、やはり実物のリンゴを見るという体験がないと『リンゴの赤』にはたどりつけない気がします。

 しかし、マリーが『赤い』という言葉を適切な文脈で用いる事ができるようになった時、他者から見てマリーが『赤い』というクオリアを意識の中に立ち上げる事ができているのか、それともただルールに基づいて『赤い』という言葉を発しているだけなのか、区別する事はできないでしょう。

 ここまで書いてきて、これは哲学的ゾンビとか中国語の部屋の問題そのものだな、という事に気づきました。

 言葉は単なるラベルであり、自分の身体を通して得られる体験を伴わなくても、あるルールに沿って言葉をやりとりできればそれは言葉を理解しているのだ、と考えるなら、マリーは辞書のみで言葉を理解できる事になります。

 大量に例文を暗記することで『赤い』という言葉を適切に使えるようになったとしても、実際に赤いものを見るという体験を持っていないならそれは『赤い』という言葉を理解した事にはならない、と考えるなら、辞書のみで言葉を理解する事はできないという事になります。

 僕はもともとクオリアという概念が好きで、あると思っている(実態を持ってある、という事ではなくクオリアという呼び方しかできないある特殊な情報の循環が現象として存在するだろう、という意味ですが)、と思っています。

 でも、マリーの部屋の思考実験から派生した、『辞書のみで言葉を理解した事になるか』問題に関しては、マリーは言葉を理解したと言っていいような気がします。
 赤いものを実際に見た時のクオリアは確かにあると思うし、それを持たずに灰色の部屋でただ色について学習しただけの人と、実際に赤いものを見た時に心に浮かぶものは違っていると思います。
 しかし、言語に関して言うと、それでも両者はどちらも『赤い』という言葉を理解しているし、コミュニケーション可能である、と僕は考えます。そういう風に意識に立ち上がるクオリアの質が異なっていたとしてもコミュニケーション可能である、という事が言葉の重要な特性であるはずだからです。

 『赤』を見る経験といっても、『赤』と結びついている一番大きな体験が大怪我をして血を見た人ときれいな夕陽を見た人では、赤い色に付随するクオリアの質は全く異なっているはずです。それでもその両者はどちらも『赤い』という言葉を理解している事になります。
 ならば、辞書を引きまくって『赤』に関する例文や他の言葉との関連性を調べ上げる、という行為も『赤』とは何かを理解するための意味のある体験で、実際に赤いものを見てはいないという点で質としてはかなり違うとは思うのですが、ある種のクオリアを持つのではないかという気がします。もちろん、『赤』という言葉に付随するクオリアの質が違いすぎてコミュニケーションは困難でしょうが、全く成立しないわけではないと思います。

 今の日本人はだいたい、英語という言語を中学高校の6年間にわたり、実際に日常会話で一度も使うことなく教科書と単語帳の暗記のみで学習させられると思うのですが、結果として、膨大な時間と労力をかけたにも関わらず、英単語には日本語の単語に感じるような実感のあるクオリアを持つ事はできていないのではないかと思います。少なくとも僕はそうです。
 でもその無味乾燥とした英語を使って英語圏の人とコミュニケーションする事は、多少ですができます。

 英語圏の人から見たら、僕のような机の上でのみ英語を習った人は、哲学的ゾンビのように見えるのかもしれません。
 まあ、僕の場合だったら頭の中で英単語を日本語に置き換えて、その日本語と結びついているクオリアが意識にのぼっているので、ゾンビとは違いますが、それでもかなり異質な存在であるはずです。にもかかわらず、言語コミュニケーションはある程度成立します。

 おそらく、言語というのはクオリアという、他者と絶対に共有できない超個人的な感覚でしか意識を構成できない人間が他者とコミュニケーションするためにつくりだした記号システムなのではないかと思います。従って、クオリアを持たない哲学的ゾンビでも、言語によってなら人間と同じ振る舞いをする事は可能です。しかしそれはクオリアが幻覚である、という事ではなく、言語が元々そういう特性を持っているからではないかと思います。

 チューリングテストも中国語の部屋もマリーの部屋も、意識の有無、クオリアの有無を判断するために言語を使っているのですが、どうも言語を使ったテストでは答えが出せないような気がします。
 上記のように言語が異質なクオリアを持つ者同士のコミュニケーションのためのツールである事と、身体性を伴うエピソード記憶なしの、辞書を引くといった種類の学習も、そこから法則性を見つけ出す試行錯誤が、結果としてある種のクオリアを生み出してしまうために、クオリアを持たない学習手段として成立しないからです。

 結論として、灰色の部屋で学習したマリーは赤い色を見た事がないにも関わらず、『赤』という言葉に対してはある種のクオリアを持ち、理解があると言っていい状態になるだろう。しかしそのクオリアは実際に赤いものを見て学習した者とはかなり異なっているだろう。しかし言語によるコミュニケーションは可能であり、それは言語の特性によるものである。
 『赤』という言葉ではなく、実際の赤いものに対してはどうかというと、マリーは灰色の部屋から外に出て赤い物を見た時、驚きを感じるだろうが、それは既にあった辞書学習のクオリアがアップデートされたためであり、クオリアが無から有に変化したためではない。

 整理すると

 マリーの現実の赤を見た時の驚きはクオリアの実在を証明しない。

 人間と哲学的ゾンビとの差は、言語を用いたテストでは知る事ができない。それは人間と哲学的ゾンビに差がない(=クオリアは幻覚である)からではなく、もともと言語が異質なクオリアを持つ者同士のコミュニケーションツールだからである。

 クオリアを伴わない学習というのがそもそもあり得ないのではないか。人はどんな形でも何かを学習する際にエピソード的な体験を持ち、それにクオリアという一種のラベルをつけて記憶するのではないか。

 というような事をつらつらと考えていました。

 なんか最初に書こうと思った事と全然別な方に話が流れてしまって、話にとりとめがなくなったのでこの辺で。長文すみません。

 最初に書いた、『知識のない人がそれのみで学習可能な辞書はつくれるのか』に関しては、『可能だと思うが、身体性を伴ったエピソード体験なしでは、その知識やそこで生まれるクオリアは極端に異質な物になるだろう。しかし言語でのコミュニケーションは可能だろう』という事になります。ううむ。
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テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

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「百聞は一見にしかず」を回りくどく説明しているようだ

「うちにこんがらがって」が「うんちんこ」に見えた・・・。
早く寝ないと・・・

 電脳空間カウボーイズの最新回ともシンクロしていて、とても興味深く読むことができました。
「僕がCSCを聴いていたために、『CSCを聴かずに読んだ場合の自分』よりもこのコンテンツを深く味わい、理解することができたのだ」と感じ、「そしてこの感覚も、この二つのコンテンツのインプットがなければ発生しえなかった」と気付くのでした。
この一週間でモノの見方がずいぶん変わった気がします。安倍さんの言葉が、また僕の世界を拡張してくれます。

とりあえず女の子を監禁してはいけないと…(ぉ

2次元の人に3次元の事項を教えるような…
盲目の人に海の風景を説明するような…雰囲気ですね

かわいそうな女の子に「water!」は関係ないか…

自分も赤い光を見ずに赤の知識を得るのは無理かと思います。想像はするのでしょうけど。
あるいは自分の肌とか血を見ているならわかるかもしれませんがそれも無しなんですよね。

ミヒャエル・エンデの小説か何かで、よく木の言葉、やら人間の知らない色、やらといったものが出てきた事を思い出しました。妙な話だと思います。

私も恐らくは、「クオリア」であの方の考え、思いを引き出し、知らず知らずのうちに自己表現していたのかも知れません。まあ、今となっては昔の話ですが。

言葉は抽象に名前を与えるためのものであり
その抽象が指す対象は人によって違って当たり前である。
マリーが赤という言葉を使用するにあたって、彼女はなんらかのメタファーを
(我々「外」の世界の人間が適用するような概念とは大きく異なるとしても)
赤という言葉に与えているのだから
実験の検証においてマリーとの対話に赤という言語を用いる限りは
マリーが赤のクオリア(赤、という抽象概念)を実験の中で得られるか否か?を
議論することは出来ない、と。
言語そのものが一種の事象に対するメタファーですからね。

抽象は具象と違って実体がないのに確かにそこにある、と感じるものなので
その成り立ちを一意に規定する体系を模索する作業は興味深いですね。

とても興味深い問いだったのでリンク貼らせていただきました!
人の認識にかかわるテーマはとてもわくわくします。

コメントが長文になりそうだったので、blogでエントリとして書いてみました。
よろしければどうぞ。

あっしには小難しいことはよくわかりませんがぁ~。たぶん、このことを
仰りたいのかもしれない、などと思ったり。

ttp://absss.seesaa.net/article/109576907.html

そいでもって、「全く知識のない人間が使用したとしても、
すべての知識を検索し、理解できる辞書を作る事は可能か?」
なんてことは偉いエンジニアさんが答えてくれるかもしれない、などと
思ったりもします。お役にたてればよいのですが。

ttp://okanokabe.asablo.jp/blog/2009/01/16/4058605

情報と意思。

こういう話題は大好きです。完全な人工知能(AI)の構築と通じますね。
命令と関係ないあらゆる情報の排除にウン万年ウン億年かかる云々…

私は天の邪鬼なので、以前マリーの部屋を考えるときに
・灰色(或いは白と黒)に対するクオリアはどうなっているのか
・そもそも色とは光の反射によって起こる事象なのだから
 「色のない部屋」とは「光のない部屋」と言う事になり
 リンゴ以前に「物を見る事」が初めてになるのでは。
・マリーの嗅覚・触覚・聴覚、及びそれによるクオリアは。
何にせよ揚げ足取りの考えですね…すみません…

「言語」で伝わらない「色の感覚」を「知識」と言う「情報」で代替できるのか。
「学習」と言うよりは単に「情報入力・検索」に近い気もします。
「知識」「学習」と言うのは少なからず「思考」が絡んでくると思うので
マリーに思考を認めるか認めないか、情報の存在をもって「知識」なのか
「理解」自体はクオリアではないのか等々…

でも、それだけの空間にいられる図太さがあれば
リンゴが赤かろうとテレビがカラーだろうと「気にしない」と言う結果だったりw
実は既にマリーの部屋に色は付いているのかも…

何にせよ面白い話題どうもでした♪

結論に対しては、同感する点がとても多いのですが、
ただ、現象学や言語学の観点からすれば、
クオリアという概念を持ち出すことも無いような気がします。
思考実験は、言語という体系自体がもつ決定不可能性を排除しえないですし、
また、デリダを信奉するわけではありませんが、
言語も辞書も脱構築的な体系と捉えたほうがいいのではないでしょうか。

また、「本当」「完璧」「無限」「永久」という概念を用いて言葉を使って思考実験をすれば、
それは無矛盾性を証明できない二項対立の形而上学的な言葉の連なりになってしまうのではないかと。
さらに、この思考実験自体、結論を導く過程で安倍先生のクオリアをもとにしているとも感じます。

むしろ脳科学的、実証的あるいは統計的なアプローチであるのであれば、
ある一定の科学的な解を得ることも出来るかもしれませんが、
言語による言語を対象とする形而上学的な思考実験の結果は、
主観的な結論しか得る事ができないのではないかと思います。
(コミュニケーションは主観的だからこそ行うのであって、主観的な結論だから悪いという事ではないですよ)

しかし、むしろだからこそ、言葉というのは客観的な世界に対して自由であるのだし、
最も非現実的な(あるいは超現実的なといってもいいですし、非合理的なといってもいいですが)表現媒体
なのではないかと思っています。
例としては全くつまらない(詩的ではない)ですが、
例えば「四角い三角形の絵」というような、
矛盾する概念を自己言及的につなぎ合わせる事ができるのが言葉です。
これを実際に絵で表すことは出来ない訳で、
これは言語が抽象化され、かつその文法の体系において矛盾を内包する事ができるから行える表現なわけです。
(ちなみに、詩的な言葉は、もっと直接的には関係のない概念同士で、
かつ通常結びつかない概念がつなぎ合わさった時に生まれる、と個人的には思っています。)

逆に感覚に対して最も直接的に表現できる媒体が音楽だろうと思います。

KING OF BANDIT JINGの一巻に似たような設定のキャラが出てきます
残念ながら上記のような話題の問いかけには至らないのですが

しろやぎさんたら読まずに食べた

学校でちょうどやってるところなので、興味深かったです。
こういった命題がいつも言語について言及するのは、絶対的に主観性を帯びたクオリアの存在の有無を論じる場合に、客観的にことばで表現することができた時点でクオリアの存在が否定されるから。哲学的ゾンビの議論もクオリアの有無を問題としているので、言語に言及するのはそういうことです。
でも、マリーと私達のように、(異種にしろ)クオリアが存在するとした上で、言葉について論じても確かに意味を持たないんですね。興味深いです。

でも、マリーの「ある種のクオリア」についてはいまいち実感がわいてなくて、自分でも、もう少し考える必要があるようです。
マリーの話は青という情報をもったマリーが青をみてクオリア的にアップデートされるか否かによりクオリアの有無を論じるもので、辞書だけで理解できるかの問題はどちらかといえば中国語の部屋の議論に近い気がしました。
しかし、色や痛みといった我々にとってのクオリアなしにマリーが世界のあらゆることを理解したとして、そこに我々とは違うある種のクオリアが成立しているかは、わからないと思いました。難しいです。

コミュニケーションについては、ある程度の成立とは‘‘How are you?”に対しては‘‘Fine,thank you.And you?”と条件反射的に返す、ということですかね。確かにそれなら哲学的ゾンビみたいですね。
でも、ただの条件反射でなく、「哲学的ゾンビでない」我々が日本語ほど実感はなくともそこに部分的にもクオリアの共有、ないしクオリア的理解を認めるなら、その共有の分だけ実感的コミュニケーションが成立するという気がします。(←ここではクオリアの存在が前提されている。)マリーと私達の間にコミュニケーションが成立した場合も似たことが言えそうだと思います。

こういう議論は矛盾が出ないようにするのが難しいですね。難解になってしまうし。
なんだか長々とすみません。大変興味深かったので。新しい視点が多くあって、とてもおもしろかったです^^




プロフィール

安倍吉俊

Author:安倍吉俊


イラストレーター。漫画集『回螺』、画集『垓層宮』発売中。
ガンガンONLINE『リューシカ・リューシカ』連載中。
代表作『lain』『NieA_7』『灰羽連盟』『TEXHNOLYZE』
Macユーザー。カメラと自転車好き。爬虫類と魚を飼育中。
何かありましたらabetc*mac.comまで(*を@に変えてください)。

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