大人は負けてあげなきゃいけない
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善い情報は子供をよくする、悪い情報は子供を悪くする。だから子供には善い事、正しい事だけを見せるべき、教えるべきだ。という考え方をする人がいます。それはたぶん間違っています。そして危険な考え方です。
子供に必要なのは、『現在の社会において善い、正しいと言われているものはなぜ正しいのか、悪い、間違っていると言われるものはなぜ間違っているのか』という情報です。だから、善いものを見せ『これは善いものだ』と教える機会、悪いものを見せ『これは悪いものだ』と教える機会の両方が必要です。個々の情報が、社会においてどのような位置づけにあるのか、情報と、それに付随する文脈をセットで学ばせなければ、道徳とか倫理観とか分別は子供の心には生まれません。
きちんとした道徳観を当たり前のように持っている人ほど、自分の道徳観という『結論』を子供に与えれば子供は自分と同じようになる、と思ってしまうようですが、そうではなくて、自分がその道徳観を持つに至った『過程』を教えなければ子供は学べない、という事をもうちょっと真剣に考えるべきではないでしょうか。
子供に必要なのは、『現在の社会において善い、正しいと言われているものはなぜ正しいのか、悪い、間違っていると言われるものはなぜ間違っているのか』という情報です。だから、善いものを見せ『これは善いものだ』と教える機会、悪いものを見せ『これは悪いものだ』と教える機会の両方が必要です。個々の情報が、社会においてどのような位置づけにあるのか、情報と、それに付随する文脈をセットで学ばせなければ、道徳とか倫理観とか分別は子供の心には生まれません。
きちんとした道徳観を当たり前のように持っている人ほど、自分の道徳観という『結論』を子供に与えれば子供は自分と同じようになる、と思ってしまうようですが、そうではなくて、自分がその道徳観を持つに至った『過程』を教えなければ子供は学べない、という事をもうちょっと真剣に考えるべきではないでしょうか。
自分の子供時代を振り返れば、誰でも善いものも悪いものも見ているはずです。そして、親とか先生とか周囲の大人とのコミュニケーションの中で、善いものはよい、悪いものはわるい、と学んできたはずです。自分の子供時代に、ケシカランものをケシカラン、と叱ってくれた大人たちに感謝の気持ちはありませんか?自分たちが大人になった今、情報を隠して対話から逃げるのではなく、ケシカランものが存在する社会の中で、自分も子供たちに『ケシカランものはなぜケシカランのか』を教えてあげなければ、とは思いませんか?
親が子供に『エロ本見るな!』と言うのは、結局子供がその言いつけを破ってエロ本を見ちゃうのが分かっていて、だけど見た時に『これは見たらダメな本だって親が言ってたなあ』と、ちらりと罪悪感を持つ事で分別を学んで欲しいからであって、決して子供に性欲を無くせとか、法を破る経験をさせたいからではないはずです。
自分の子供時代を振り返った時、性欲が全くなかったという人はごく少数だと思います。にもかかわらず、現代の社会の中で、エロを悪に分類するのは、今の人間は心の成長より体の成長の方が早いので、思春期のある時期に『性欲はあるけどその本能に無分別に従ったら社会的に責任が持てない』期間があるから、その期間を慎み深く過ごして欲しいという大人の配慮であって、本当にエロが悪な訳ではありません。大人は『けしからん、けしからん』と叫びながら、それに対する子供の反発や心の成長を見て、絶妙なタイミングで『負けて』あげなければいけません。それがちゃんとした大人の役目じゃないかと僕は思います。
この負ける、という感覚がうまく理解できない人たちが、狂った法律をつくろうとしてしまうのだと思います。きっと正義感からだと思うのですが、自分のその正義感が何によって養われたのかを思い出すべきです。
確かに親の立場からしたら、自分の子供がエロサイトをみたり、ぼんぼん人が死ぬゲームをしたりしていたら心配になると思うのですが、そこで短絡思考に陥って『自分を心配な気持ちにさせるものは全て無くしてしまえばいい、無くす事が正しいに決まってる』と思って情報を隠してしまったら、子供はあなたと同じように性に対して慎みを持ったり、暴力を憎んだり、死を軽んじない気持ちを持ったりはできなくなります。大人はその事に気づけなければいけないと思います。
エロとか暴力表現でお金を稼いでいる人に対して、それはよくない事だと言う事自体は間違いではないと思います。それが間違いではないのは、暴力を題材にした表現がよくない事だからではなく、そういう表現が世の中にはあり、親がそれをよくないものだと言って怒っている、というその状況や、状況が持っている文脈全体が子供にとって欠く事のできない重要な学びだからです。だから法律に責任転嫁せず、自分の言葉でケシカランものはなぜケシカランのかを子供に話したあげなければ意味がありません。
対話だけでは子供をそういう表現物から守れないとか、法律という武器がないと戦えない、と感じる人もいると思います。そういう人はきっと、よくない表現物から子供を引き離すための戦いにおいて、自分が『勝たなくてはならない』と勘違いしているのだと思います。勝つ事は間違いです。何度も言いますが、親の役目は子供の成長をみて、適切なタイミングで『負ける』事です。
たぶん、すごく腹立たしい事だったり、納得いかないと感じる人もいると思うのですが、じっくり考えてみてください。
親が子供に『エロ本見るな!』と言うのは、結局子供がその言いつけを破ってエロ本を見ちゃうのが分かっていて、だけど見た時に『これは見たらダメな本だって親が言ってたなあ』と、ちらりと罪悪感を持つ事で分別を学んで欲しいからであって、決して子供に性欲を無くせとか、法を破る経験をさせたいからではないはずです。
自分の子供時代を振り返った時、性欲が全くなかったという人はごく少数だと思います。にもかかわらず、現代の社会の中で、エロを悪に分類するのは、今の人間は心の成長より体の成長の方が早いので、思春期のある時期に『性欲はあるけどその本能に無分別に従ったら社会的に責任が持てない』期間があるから、その期間を慎み深く過ごして欲しいという大人の配慮であって、本当にエロが悪な訳ではありません。大人は『けしからん、けしからん』と叫びながら、それに対する子供の反発や心の成長を見て、絶妙なタイミングで『負けて』あげなければいけません。それがちゃんとした大人の役目じゃないかと僕は思います。
この負ける、という感覚がうまく理解できない人たちが、狂った法律をつくろうとしてしまうのだと思います。きっと正義感からだと思うのですが、自分のその正義感が何によって養われたのかを思い出すべきです。
確かに親の立場からしたら、自分の子供がエロサイトをみたり、ぼんぼん人が死ぬゲームをしたりしていたら心配になると思うのですが、そこで短絡思考に陥って『自分を心配な気持ちにさせるものは全て無くしてしまえばいい、無くす事が正しいに決まってる』と思って情報を隠してしまったら、子供はあなたと同じように性に対して慎みを持ったり、暴力を憎んだり、死を軽んじない気持ちを持ったりはできなくなります。大人はその事に気づけなければいけないと思います。
エロとか暴力表現でお金を稼いでいる人に対して、それはよくない事だと言う事自体は間違いではないと思います。それが間違いではないのは、暴力を題材にした表現がよくない事だからではなく、そういう表現が世の中にはあり、親がそれをよくないものだと言って怒っている、というその状況や、状況が持っている文脈全体が子供にとって欠く事のできない重要な学びだからです。だから法律に責任転嫁せず、自分の言葉でケシカランものはなぜケシカランのかを子供に話したあげなければ意味がありません。
対話だけでは子供をそういう表現物から守れないとか、法律という武器がないと戦えない、と感じる人もいると思います。そういう人はきっと、よくない表現物から子供を引き離すための戦いにおいて、自分が『勝たなくてはならない』と勘違いしているのだと思います。勝つ事は間違いです。何度も言いますが、親の役目は子供の成長をみて、適切なタイミングで『負ける』事です。
たぶん、すごく腹立たしい事だったり、納得いかないと感じる人もいると思うのですが、じっくり考えてみてください。
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日本はこういうことを一々考えないといけない国になっちゃったんですね
何か、こういうのって教わって出来る事とは思えないんですよね
その内、「正しいコミュニケーション方法」とか、そんな本が出そうで怖いです
何か、こういうのって教わって出来る事とは思えないんですよね
その内、「正しいコミュニケーション方法」とか、そんな本が出そうで怖いです
私も同意見です(といっても、私自身はまだ若造ですが
そして、規制問題についても、どうでもいいと考える方もいらっしゃるようですが、規制された後では遅いと思います。
それこそ、ナチスドイツのように、全てが終わった後で気づいても手遅れなのですから(あんまりいい例じゃ無いかもしれませんがすいません
そして、規制問題についても、どうでもいいと考える方もいらっしゃるようですが、規制された後では遅いと思います。
それこそ、ナチスドイツのように、全てが終わった後で気づいても手遅れなのですから(あんまりいい例じゃ無いかもしれませんがすいません
絶妙なタイミングで「負ける」というのはなかなか難しそうですね。
と、負けず嫌いな私が言ってみます。
正義感や考えの押し付けが嫌なものだとわかってはいても
実生活において自分がそんな行動をとってたりすることは
よくあります。
最低限必要なことは、そんな自分を自覚すること。
肝心なことは、そんな自分を変えていくこと。
これがまた難しいです。
と、負けず嫌いな私が言ってみます。
正義感や考えの押し付けが嫌なものだとわかってはいても
実生活において自分がそんな行動をとってたりすることは
よくあります。
最低限必要なことは、そんな自分を自覚すること。
肝心なことは、そんな自分を変えていくこと。
これがまた難しいです。
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